おまけの一日ブログ 〜Too Late To Die 〜

齢27を越えなおも余生を生きる一会社員の独り言。

「リズと青い鳥」はロックンロールである。

おおよそ正気の沙汰ではない。

そもそも吹奏楽だ。ロックではない。

でも僕はこの物語を、ロックンロールと呼びたい。

サンボマスター的価値観でもってこの文を書く。

 

 

リズと青い鳥は。

希美とみぞれの物語は、イヤな話である。

 

すれ違いですら無いと思う。

むしろ軋轢、軋みながらジリジリと這い進む、

歪なふたりの話である。

 

 

 

みぞれのそれは、余りに一方通行な想いの物語だ。

どこまでも狭い視点で展開される針穴の物語。

希美しか見えず、希美しか見られない。

 

梨々花という外部の干渉もあったが、

みぞれの能動的な意思は希美にのみ向けられている。

みぞれの世界は望美によって始まり、

希美によってのみ決定される。

 

希美がいるから、みぞれが在る。

自身の存在が希美を苦しめるなど、みぞれにとっては絶対にあってはならない。

 

 

 

希美のそれは、嫉妬と自己嫌悪の廻廊だ。

数多い友人のひとりに過ぎなかったみぞれ。

そんな彼女が隠し持っていた、

自分が焦がれてやまない唯一無二の才能への妬み。

 

無自覚な奢り、自尊心への気付き。

取り繕う事など容易いと思っていた自分の、

思いと行動が乖離していく。

受け入れ難い現実により、優れた人間だったはずの自分が、余りにも簡単に凡庸な存在に変わる。

みぞれの存在が希美を追い詰める。

 

 

 

形は違えど意識し合う存在になったふたり。

依存と妬み。

近づくほど傷つけ合う、危うさに満ちた関係。

 

 

映画としては、希美がいまを受け入れることで、

ハッピーエンドへの望みを繋ぐ形で一応の幕を閉じた。

 

 

 

モヤモヤする。不完全燃焼だ。

 

だがこのモヤモヤこそが、えも言えぬ快感であり、この物語の肝であり、最高にロックンロールだと思う。

 

 

 

私論を述べる。

ロックンロールとは刹那性であり、失われるものへの執着であり、決して手に入らないものへの憧憬であり、ひとことで言えば"切なさ"である。

 

 

 

みぞれのどこまでも真っ直ぐな希美への想い。

叶わぬことが明らか過ぎる故に、たまらなくエモい。

届かぬ想いの切なさ、それ即ちロックンロールである。

 

 

希美の愛憎入り乱れたみぞれへの想い。

終着の見えない行方無さに泥臭い人間味が滲み、

余りにエモい。

ごった煮の感情と共に這い進む様、

それ即ちロックンロールである。

 

 

 

叶わない可能性に想いを馳せる切なさ。

どうにもならない現状への怒り、遣る瀬無さ。

それでも前に進む、進まなければいけない悲壮感。

 

そんな感情を音に乗せた衝動の塊こそがロックンロールであり、だからこそ音は歪み、心根を引き摺り出そうとする。

 

 

 

心掻きむしる切なさと衝動に満ちたこの物語は、余りに純度の高いロックンロールだ。

 

 

リズと青い鳥の全てをロックンロールと呼べ。