「リズと青い鳥」はロックンロールである。
おおよそ正気の沙汰ではない。
そもそも吹奏楽だ。ロックではない。
でも僕はこの物語を、ロックンロールと呼びたい。
サンボマスター的価値観でもってこの文を書く。
リズと青い鳥は。
希美とみぞれの物語は、イヤな話である。
すれ違いですら無いと思う。
むしろ軋轢、軋みながらジリジリと這い進む、
歪なふたりの話である。
みぞれのそれは、余りに一方通行な想いの物語だ。
どこまでも狭い視点で展開される針穴の物語。
希美しか見えず、希美しか見られない。
梨々花という外部の干渉もあったが、
みぞれの能動的な意思は希美にのみ向けられている。
みぞれの世界は望美によって始まり、
希美によってのみ決定される。
希美がいるから、みぞれが在る。
自身の存在が希美を苦しめるなど、みぞれにとっては絶対にあってはならない。
希美のそれは、嫉妬と自己嫌悪の廻廊だ。
数多い友人のひとりに過ぎなかったみぞれ。
そんな彼女が隠し持っていた、
自分が焦がれてやまない唯一無二の才能への妬み。
無自覚な奢り、自尊心への気付き。
取り繕う事など容易いと思っていた自分の、
思いと行動が乖離していく。
受け入れ難い現実により、優れた人間だったはずの自分が、余りにも簡単に凡庸な存在に変わる。
みぞれの存在が希美を追い詰める。
形は違えど意識し合う存在になったふたり。
依存と妬み。
近づくほど傷つけ合う、危うさに満ちた関係。
映画としては、希美がいまを受け入れることで、
ハッピーエンドへの望みを繋ぐ形で一応の幕を閉じた。
モヤモヤする。不完全燃焼だ。
だがこのモヤモヤこそが、えも言えぬ快感であり、この物語の肝であり、最高にロックンロールだと思う。
私論を述べる。
ロックンロールとは刹那性であり、失われるものへの執着であり、決して手に入らないものへの憧憬であり、ひとことで言えば"切なさ"である。
みぞれのどこまでも真っ直ぐな希美への想い。
叶わぬことが明らか過ぎる故に、たまらなくエモい。
届かぬ想いの切なさ、それ即ちロックンロールである。
希美の愛憎入り乱れたみぞれへの想い。
終着の見えない行方無さに泥臭い人間味が滲み、
余りにエモい。
ごった煮の感情と共に這い進む様、
それ即ちロックンロールである。
叶わない可能性に想いを馳せる切なさ。
どうにもならない現状への怒り、遣る瀬無さ。
それでも前に進む、進まなければいけない悲壮感。
そんな感情を音に乗せた衝動の塊こそがロックンロールであり、だからこそ音は歪み、心根を引き摺り出そうとする。
心掻きむしる切なさと衝動に満ちたこの物語は、余りに純度の高いロックンロールだ。
リズと青い鳥の全てをロックンロールと呼べ。