映画 聲の形について。
何度でも観たいと思う映画、聴きたいと思う音楽。
そういったものに出会えるのはすごく貴重で、アラサーともなればそんな出会いも本当に限られてきて、気付けばプレイリストは昔の曲ばかりで埋まっていて。
ホルモンを聴いてブチ上がったあの衝動を。
けいおん!について恥ずかしげもなく想いをぶちまけていたあのたまらなさを、未だに追い求めている。
だからこそ、なぜか何度でも取り憑かれたように観てしまうこの映画を、取りこぼさなかったことがとてもありがたい。
聲の形の話です。
ひどく私的な感想文になる。
監督が山田尚子さんだとか、多分に漏れず声優の方々の演技がヤバいとか、植野がヤバいとか、植野の「久しぶり」でトリップするとか、書きたい事は山ほどある。
でもとりあえず、なんでこんなに観てしまうのかに絞る。
この映画は、ディスコミュニケーションの愛おしさを描いている。
人と人が100%理解し合うことなど絶対にできない。
その前提に立った上で、それでも通じ合おうとする。
その尊さを徹底的な純度で伝えようとしている。
描かれるのは始まりと通過点で、
分かり合いたいから、物語はまだ続いていく。
人が分からない。
分からない事は怖い。怖いから、逃げたい。
逃げた先に何があるのかなんて考えたくもない。
そんな生き方間違えた奴も、生きてりゃいつしか分かるかもなんて、諦めてたものを拾い上げてくれる物語だと勝手に思って何度も観てしまう。
マトモに生きられないと思った日から、意外と人生捨てたもんじゃないと思わせてくれる物語や曲に、僕は救われてきた。
聲の形は間違いなくその一つで、これからもたぶん観続けるのだろう。
全く違うテイストなんだけど、どうしてもこの曲がよぎる。
しんどい日々を生きるために、力をもらえるこの曲が。
筋肉少女隊で、「タチムカウ -狂い咲く人間の証明-」。